菩提山 民を護った明山鯨鑑和尚(経塚)の由来

​「経塚」は菩提山(海抜六七七メートル)の頂上にある地名で、登り四十町と記されております。

今から、おおよそ三百年前 昔のことです。八代将軍徳川吉宗の時代のことであります。そのころ伊久美川流域に

住む住民や、峠向こうの滝澤に住む人たちに、大へんわるい疫病が流行し、体力の弱い幼い子どもや、年老いた

老人たちが、病にかかり尊い人命を失うことが多くて、毎日悲しいおもいで、明け暮れておりました。

この頃、一人の偉い坊さんがおりました。名は、「明山鯨鑑和尚」といいました。

この鯨鑑和尚は、悲しみに明け暮れる住民たちの姿を見て大へん心を痛め、なんとかこれを救うことは出来ない

ものかと考え、菩提山に登りました。そこで、この山から見下ろす四方八方の住民の命とかえて、救ってあげたいと

決心して、菩提山中に、住みついたといわれております。鯨鑑和尚は、この山の山頂に小さなお堂をつくりました。

そして、護り地蔵尊を祀り、毎日お経を唱えはじめました。そのうえにこの和尚は、村の若者を集めて、南から波に洗われた綺麗な小石を数千個と集めさせ、山頂まで運ばせました。

そこで鯨鑑和尚は、この小石に幾日もかけて「涅槃経」というお経の文字を一つ一つていねいに書きつづけ、

お経を唱えながら、くる日もくる日も一心に住民の安泰祈願を祈りつづけたと言われております。そして菩提山の

ふもとに住む人々の健康と安全を祈りつづけました。般若経を書き終えることが出来た鯨鑑和尚は、この小石を

この山に埋めました。この小石を埋めたところ、そして石地蔵尊のあるところを「経塚」といわれております。

その後、地域の人々の疫病もおさまりましたが、鯨鑑和尚は菩提山にその後もたてこもり遂に亡くなられたとのことであります。山頂に建てたお堂は落雷のため焼失したのですが、地蔵尊だけは、今でも苔むして残存しております。

以来、この地域の住民たちは、菩提山(経塚)へ登って香華をたむけることを忘れません。

(「志太郡誌」を参考にして)

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